少女
皆さんは昔は大人に見えていた人たちが急に子供の延長戦のように感じることってありませんか?
私はあります。ある時を境にずっとそのような感覚を抱いています。
今日はそのきっかけとなった話をします。
私は母が亡くなった日のことを今でも鮮明に覚えているのですが、
病室で目は半開き、口はおそらく窒息のため苦しそうに開けたままで、全身リンパ浮腫でパンパンになったままの手足は重くベッドに沈んでいました。
そして目の下には泣いた跡も。
病室で一人、苦しさの中で猛烈な寂しさと娘たちが社会に出ていくところを見送れない悔しさと、最後に見せた父の優しさと、いろいろなことを考えながら泣いていたのでしょう。
この文章を打つだけでも涙がこぼれてきます。
私はその日、苦しそうに亡くなった母の顔が一人の少女の顔に見えました。
思えば、母は家を飛び出す形で日本に渡ってきたときからずっと一人でした。(私の母は外国の人です)
日本語検定で一級を取得したり、日本語のスピーチコンテストで優勝したり、とにかく努力家でした。
ですが、言葉の壁は些細な誤解を生み、いろんな人と仲良くなっては最終的には距離を置く・置かれる、そんなことの繰り返しでした。
父も仕事に忙殺されており、あまり家庭に関して記憶が残っていないくらいの距離感でした。
そんな中で唯一離れていかないのが私たち3姉妹だったのでしょう。
母は娘の教育にそこまでするか、というほどに情熱を注いでくれました。
また、恋愛観に関しては純潔そのもので、私がちょっと小学校で覚えてきた下ネタを言うだけではたかれまくりました。
そんな母と一番闘ってきたのは次女である私でした。
化粧品に手を出したのも、髪の毛を染めたのも、勝手に恋愛解禁したのも、制服のスカートを折ったのも、なにもかも私が一番最初で、とにかくおかしいと思った家の掟をぶち壊していきました。
母から私はよく言われていました。
「あなたは3人の中で一番毒を与えてくるけど、家族の中で一番薬を与えてくれるのもあなたなのよね」と。
確かに実家にいる頃は一番家事を手伝っていたのも私でした。
そんな母との関係性がいつまでも続くと勝手に思い込んでいた、というより、そうあってほしいと強く願っていましたし、
急に親孝行し出すとなんだか安心して早く逝ってしまうよう気がして、
私は母が病気になってからもそのスタンスをあまり崩すことができませんでした。
ですが母が亡くなる一年前から勉強に関しては変に心配をかけたらいけないと思い、ちゃんと計画的に確実に通る勉強をするようになりました。
母はその様子を見て喜んでいました。
そんな母でしたが、介護の中で様々なやるせない思いを家族にぶつけてしまうことも多々あり、後になって謝るということが何度かありました。
そして私は母と直に会った最後の日、大ゲンカをしてしまいました。
まさかその日が最後になるとも知らずに。
私が今でも一番後悔していること。
それは「ありがとう」を人生で一回も母に素直に伝えることができなかったことです。
※私の後悔に深く刺さる動画をたまたま見つけたのでそのリンクも貼っておきます。
出川哲朗が亡き母と再会し涙する…『復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~』舞台裏【NHK1.5ch】
その日私は、溢れ出る後悔の念を込めるかのように冷たくなった母のぱんぱんの手を強く握りました。
あの手の感覚は今でも忘れられません。
母の手が冷たい分、感じたのは自分の温もりだけでした。
なんでこの手が温かいうちに握ってやることができなかったんだろう。
なんでこの体が温かいうちに無言でもいいから強く抱きしめてあげることができなかったんだろう。
そう考えた瞬間、母も一人の孤児だったんだ、母の温もりをいつまでも欲していた一人の少女だったんだな、と母性に近い感覚がわいてきました。
そしてこの日の感覚は時間と共に私の大人に対する見方を変えさせていきました。
私は全ての大人がみんな誰かの温もりを欲している一人の子供に見えるようになったのです。
歳上の方々からすれば生意気に聞こえてしまうかもしれませんが、私は年齢関係なく、温もりの足りないこの社会で生きるすべての大人の人を温かく受け止めたい、と思うようになりました。
そして今日何となく久々に聞いた、この歌。
以前は純粋に優しい恋愛の歌に聞こえていたのですが、いま改めて聞くと少し母を連想させる歌詞に聞こえました。
こんなにも騒がしい街並に たたずむ君は
とても小さく とっても寒がりで 泣き虫な女の子さ
私に将来、義理の母ができることがあったなら自分の母に恩返しをするような気持ちで今度こそ暖かい愛情をもって接していきたいな、なんて夢見たりする、そんな秋の夜でした。
それでは、おやすみなさい☆