姉
唐突ですが、私の姉は30歳の子ども、いわゆるアダルトチルドレンのような人です。
私と姉は大学こそ違えど、同じ学部に通っています。
元々、留年率の高い学部で有名なのですがその中でも姉は留年生界隈のキングクラス、在学限度年数である12年間大学に在籍しています。
まさかとは思っていましたが私と姉は同じ学年になってしまいました。
姉は頼れる友人の見つけ方も知らないので、おそらく大学では1人です。
1人になった時の生き方さえも正しく教わらなかったため、現実逃避からかアイドルに莫大なお金と時間を割いています。
そのお金はどこからくるのでしょうか。
父です。
唯一姉に対して厳しくも優しく接していた母は昨年他界しましたが、そこから一気に父への請求額が倍になりました。
教材費やら塾のビデオ講座やら色んな名目でお金を請求するのですが、明らかに不自然で私も父も嘘だと分かっています。
なのに父はどうせこれがもう最後の年なんだし、と訳のわからない論理でお金を姉に渡してしまうのです。
経営者であり、感情に振り回されず世界情勢を見通し人を見る目のあった父のことを今まで私は強い人だと思っていましたが、初めて弱い部分を見て父もまた1人の人間なのだと思いました。
家庭外のことは現実的に見ることができても娘の嘘に対しては向き合えない、そんな弱さを持った人間だったのです。
それはおそらく父の育ってきた家庭環境にもあると思います。
父は幼少の頃、色んな家を転々としたと母から聞かされていました。
心の拠り所などどこにもなかったのでしょう。
だから自分の血をわけ、自分から手放さない限り離れることのない娘にこんなにも甘くなってしまうのです。
あるいは、かのマーガレット・サッチャーのように仕事に忙殺され子供にあまり時間をかけられなかったことへの罪悪感から過剰に甘やかしてしまう、そんな気持ちの表れもあるのかもしれないですね。
ですが、姉に今必要なのは甘やかさずに叱ってくれる人なのです。
心のどこかで飢えるように待っているのです。
姉が今年の正月実家に帰ってきた時に父に言った言葉があります。
「何のために生きているのかもう分からない」
これは愛を知らない人間の口から出る言葉です。
なぜ彼女は愛を知らずに育ったのでしょうか。
それは人から愛されるための入口である"人の愛し方"を誰にも教わらなかったからです。
母は自分の命の終わりに気付き始めてからやっと本気で姉と向き合い始めましたが、姉に体当たりで教えることよりも体が動かなくなる方が先に来てしまいました。
父は姉に言いました。
「人は人のために生きるんだよ」
私もそれは真実だと思います。
見返りを求めず、人に何かをしてあげたい、そういった想いが道路や、電車や、病院を生み、仕事を生み、最終的には1つの国をも作り上げるのですから。
なんだかんだ不満を漏らしながらも結局は人は人のために生きるのです。
人の愛を知らずに育った人間は悲しみを知りません。
悲しみを知らずに育った人間は親が死んでも心から悲しむことができないのです。
母が他界した日、姉は泣いていました。
ですが、私はそれが本当の涙ではないことを何となく感じ取りました。(事実、母の死後すぐにアイドル活動は再開していました)
形だけでも悲しみたかったのでしょう。
昔から形だけの涙を流す姉をよく見ていたので
あぁ、またこの人は、なんという人なんだ
と思いました。
でも今は思うのです、姉は本当に可哀想な人間なのだと。
親の死を心から悲しむことができないから、未だにダメだと頭で分かっていてもドラッグのようにアイドルに依存しているのです。
姉が更生できる時が来るとしたらそれは親の死を本当に悲しいと思えた時だと思います。
なぜなら私がそうだったからです。
私は母親の介護から逃げてしまいました。
それは"勉強"という名の逃げでした。
たしかにCBT(医療系学生の病院に上がるための大事な試験)を控えていたりしましたが、本当に逃げないと腹に決めていたなら勉強のスケジュールなどもっと余裕を持って組めていたはずなのです。
だから私は未だに母の死を想うと頭が痛くなるほど悲しくなります。
母の死を乗り越えられていないのです。
母の死を乗り越えるためには言い訳に使った勉強で無事ストレートに大学を卒業して免許を取得しなければならないのだと思います。
そうしない限り、母の死に対して前向きな気持ちになれることはないのです。
私は姉にもこういう悲しみや苦しみを同じように味わってほしいと思っています。
人として生きるということが美しく活き活きしたものに感じて欲しいからこそ、今苦しい環境にある姉にはありのままの苦しさや悲しみと向き合ってほしいのです。
そしてその向き合うためのサポート役として愛を持って叱ってくれる人が欲しいのです。
どうやったらそういう人を見つけられるのでしょうか。
今の私の頭の中にある課題です。