ぽんたろう日記

人を元気付けるような言葉を綴りたい。

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「存在のない子供たち」、公開日に合わせてさっそく観に行ってきました!

 

予告編を見た時からガシッとハートを掴まれた映画です。

 

あまりこの映画のことを調べずにとりあえず観に行ったのですが、ゼイン君の目があまりにもリアルでなぜここまでこの歳でこんな表情が作れるのだろう、と思いこの方の経歴を調べました。

 

すると、なんと映画と似たような厳しい環境で育った素人の俳優さんとのこと。

 

しかもゼイン君だけではなく、ほかのキャストさんもそのような生い立ちを経ている方がいらっしゃって、なるほどだからこの高い再現性か、と納得しました。

 

ラストの電話のシーンからは泣いている方がたくさんいらっしゃいました。

 

ちなみに私も泣きました。

 

ここ一年、あまりにも人の痛みが分かる出来事が続きすぎて他人事とは思えなかったのです...。

 

この映画の内容もフィクションとはいえ、シリアやその周辺国などの現状と比較してみればノンフィクションに近いのではないでしょうか。

 

以下、ややネタバレになってしまうので知りたくない方はここで読むのをストップすることをおすすめします(汗)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この映画でゼイン君はとある大きな罪を犯してしまいます。

 

ですが映画の大半を占めるゼイン君の生き様を見ればゼイン君を責める人はおそらくいないでしょう。

 

実際、映画のレビューなどを見ているとゼイン君を責めるコメントは1つもなく、むしろこのゼイン君をここまで追い詰めた両親が許せない!と言っている方がちらほらいらっしゃいます。

 

ただ、両親を責める前にまず意識したいワードがあるのです。

 

それは"負の再生産"です。

 

この映画でゼイン君を追い詰めた両親は裁判時に自身の生き様を涙ながらに語ります。

 

もちろんそれはゼイン君にとってみれば言い訳にしかならないのですが、第三者的な目線からみるとその内容は言い訳の一言で片付けるにはあまりにも酷すぎる内容だと思いました。

 

(精神的な疾患を抱えている、などのケースを除いて)人が人を傷つける時、そこには必ず理由があります。

 

そしてその理由はすべて、万人が持つ心の弱さから来るものです。

 

私は思うのです。

 

人の心の弱さは決して先天的なものではなく、後天的に発生するものだと。

 

生まれたばかりの赤ちゃんの心は人類の中で最強です。

 

人の心の弱さは人から傷をつけられたことで生まれるのです。

 

つまり人から一回も傷つけられなければ人の心に弱さなど生まれないのです。

 

でも、そんなことは不可能ですよね。

 

ではなぜ不可能なのでしょうか。

 

それは一回傷を受けた人間は相手が心に傷みを持つ・持たないに関わらず他人に対して自分が受けた傷と同じ傷をつけるからです。

 

ここで負の再生産が起きるのです。

 

そう考えるともしかしたらこの両親の子供時代はゼイン君と同じようなもので、その酷な環境に絶望し、受け入れざるを得ず、いつしかそれが当たり前だと思ってしまった、と考えることもできます。

 

以上を踏まえ、この映画で見る人間の弱さを自分の身の回りに起こった悲しいことや理不尽なことに当てはめて考えると何ら違いはなく、改めて身の引き締まる思いでした。

 

私はかつて潔癖に近い正義感を持っており、こういった"弱さ"から生まれる傷みに怒りを覚え、自分の弱さを棚に上げて人のことを傷つけてるんじゃないよ!と他人に対して強いシールドを張っていた時期がありました。

 

一昨年までは周囲の人に恵まれており、こんな私の未熟さを若さと捉え、可愛がってくださった大人の方々がたくさんいたためその過ちに気付くことはできませんでした。

 

また後輩も優しい人しかいない奇跡のような環境でした。

 

今考えると本当に感謝でいっぱいです。

 

私はその強いシールドのせいで昨年、ランダムに組まれた10人班という集団から孤立し、制度上1年間はその集団から離れることはできなかったので、息をするのも苦しい中で自分の心と他人の心を見つめざるを得ませんでした。

 

そうすると段々とどんなに理不尽な傷を受けても人の弱さは責めるべきものではなく、共感・傾聴し、守るべきものだという風に考えが変わっていったのです。

 

詳しく言い直すと、人は人から受けた傷みに関してはしっかりと"痛いからやめてほしい"と言わなければなりませんが、その人間の弱さ、つまり人間性の否定まではしてはいけないな、と責めるべき境界線をはっきりと認識したのです。

 

 

 

この映画に関して、ナディーン・ラバキー監督曰く母国レバノンの人々の反応は真っ二つだそうで、「自分の国でそんなことが起きていることを認めたくない。自分の家からたった3分のところで起きていることを受け入れられず、見ようとしない人たち。かたや、いい意味でこの映画にショックを受けて、何かをしなければならない、変えなければならないと強い思いを持つ人たち。両極端です。」とのことでした。

 

この直視できない感じもまた"弱さ"の1つですよね。

 

また監督は続けてこんなことも言っていました。

 

「わたしはレバノンである程度女優、監督として名が知られているので政府を含めてサポートをしてくれる方は多いですが、この作品では国の欠陥を見せてしまっているので、今までの作品と比べると、自分と、そして映画と政府との関係というのは簡単に割り切れないところがあります」

 

私はこの言葉を受けて映画が与える良い意味での国政への影響に気付き1つの夢ができました。

 

国を守るための政治は大衆のためであるべきで、ただ大衆をターゲットにするとどうしても人間が行なっている政治ですから、不完全で大衆からこぼれてしまう人たちがいますよね。

 

私は一国民として、私を育ててくれたこの国に恩返しがしたいな、などと恥ずかしながらビッグなどを考えており、政治の外からこういった大衆からこぼれてしまったこの国の政治の穴とも言えるべき存在を、その穴を埋めるような活動をしたいと考えました。

 

どういった方法でその穴を埋めていくかは色んな形があると思うのでこれからたくさん知識の横幅を広げて勉強して自分がこれだと思うものを選択していきたいと思います。