苦しい人間関係から学んだこと
他人に文句を言うのはとても簡単なことです。
他人の揚げ足を取ってばかりいるとやがてこんなことに気付ける自分は大丈夫だと錯覚してしまう人がたくさんいます。
私は昨年そんな人たちをたくさん見てきました。
大学の先輩からも言われていました。
5年(言い忘れていたが私の大学は6年制である)から人間の本性がむき出しになってくるよ、と。
たしかに5年生から環境が大きく変わり、新しい環境に慣れるのに必死で個々人の心の余裕は圧倒的に無くなっていきました。
するとあまり気が合わないだろうなあと思っていた人が意外と良い人だったり、「気遣いのできる良い人」と言われている人が意外と他人の揚げ足取りを始めたり、はたまた誰か1人を集団で攻撃したりしていて、これがむき出しになった本性というやつか、と黙々と考えていました。
私の当時付き合っていた人や、友人だと思っていた人間にもそういう人が何人かいて悲しくなりましたが、深く指摘はしませんでした。
私は思うのです。
例え10人が見て10人ともアイツの行動100間違っているだろと思っても、その人が信念を持ってその行動を貫いている限り直接傷つけられた人以外はその人に文句をつけてはいけない、と。
だって私たちだって間違いを犯すことはあるのですから。
そもそも信念を持って(今は間違いだと気付けずに)間違った行動をしてる人を攻撃することそのものが間違いなのですから。
何が間違ってるかなんて、間違った本人が時間をかけて見つけていくことで、
友人でもない人たちが精神的に攻撃したりして気づかせよう、行動を改めさせよう、としている現場を飽きるほど見てきましたが私は全員を敵に回してでも言いたかったです。
あなた達のほうがよっぽど間違ってるよ、と。
ですが、それすらも彼らが自分で気づくべきことなので私はせめてその攻撃されている人が倒れないように遠くから見守り、時には声をかけて楽しい時間を共有したりしました。
最近のニュースで言えば、
磯野貴理子さんの離婚のニュースに対する各報道番組などの反応なども今までの話と似ているところがあります。
色んな番組やSNSで旦那さんに対してネガティブな発言をする人が何人もいましたが、本当のことは当事者にしか分からないことですよね。
外野がとやかく言うことではないのです。
外野からただ一つ言えるのは親友の前で無理して気丈に振る舞う磯野貴理子さんはとても強くてとても優しいということだけです。
話を戻しますが、周りを巻き込んで味方をつけて人を攻撃する人の特徴の1つに
何か嫌なことがあった時に他人のせい、環境のせいにする、というものがあります。
1人で責任を取る覚悟がないので味方を付けてから人を攻撃するのです。
当時私は自分を攻撃してくる人達がみんなそんな風に見えていました。
そして精神的年齢がいつまでたっても成長していないんだなぁ、かわいそうだなぁくらいの気持ちを抱いて流していました。
私はこういう狭すぎるほど狭い環境に放り込まれるまで結構自由奔放に発言をしており、特に悪意はなかったのですが、悪意を持って発言したと取られたりしてなんでもネガティブに取る人とは馬が合わない、と考えていました。
(例えば髪の毛を染めた女の子にどの色が一番似合ってるか聞かれて正直に今の色はこんな感じに見えて、あの時の色はこんな感じで少し浮いて見えたからこっちの方がすごく似合うと思う、と言ったりするとそれは正直すぎて傷つくから嫌われてもおかしくない、そんな嫌われ方をする君とは一緒にはいられない、と他の人から言われたりしました)
しかし、そのおかげで1人で悩んでいる時間がいつも以上に長く、そうこうしているうちに次第に考え方が変わっていきました。
ネガティブに取られてしまうのは自分の言葉の選び方がまだまだ未熟で、なんでもネガティブに捉えてしまう人が悪いわけではないよな、と。
なぜなら、その人の人生経験の中で培ってきた価値観で解釈した結果なのですから。
もしネガティブなものの考え方が合わないなと感じたら、その人を責めるのではなく、自分が同じことを人にしないように気をつけよう。
そんな風に思うようになりました。
すると全ての人に対して、傷つくことはあっても"怒り"という感情がまったく起こらなくなり、そして前よりも寡黙になり、そして寡黙になった結果なのか自分や他人の多くの秘密を、些細な秘密でさえも漏らさないようになりました。
成長するとはこういうことなんでしょうね。
私は苦しい人間関係から「自分にとことん執着しないと人は成長できない」ことを知りました。
とは言え私は25歳。まだまだ未熟です。
他人の足を引っ張っている暇があったら自分の不出来さを自覚することに時間を使いたいと強く思うようになりました。