「信用」と「信頼」の違い
人をを信用できない。
正確に言うと人の何を信じていいかが分からない。
だからこそとりあえず全員のことを一旦信じる。
そして裏切られては傷付く。
この悩みを持っていた25年間。
信じられるのは自分だけ。
でもそんな自分でさえも心のどこかで信用できない自分がいました。
そしてその理由は25年目にして分かりました。
自分の中で特に客観視できていなかったもの。
それが「痛み」でした。
このことに気付いてからは本当に色々な物事に対して揺らがなくなりました。
自分の、客観的に見えていなかったところをしっかりと見通すことができたからです。
とは言えまだまだ見えてない自分の能力はたくさんあるでしょうし、そもそも自分なんてものは変化に富んだ生き物なので今までの自分が見えた、と言ったほうが正しいですね。
私の同期でこんなことを言う人がいました。
「なんであの人いつもあんなに自信満々なんだろうね」
それはちょっと皮肉の入った言い方でした。
その時私は、そもそも私自身が自信満々な人間だったので、この問いに対して自分が同じことを言われたらどう答えるかな、と黙々と考えていました。
そして答えを見つけました。
人の気持ちは移ろいやすく、世の中に溢れている情報や、当たり前だと教え込まれているルールでさえも根拠を辿れば怪しいものが多々ある中で、
私がこんなにも自信満々なのは
私のこの頭で考え決断した、ということだけを絶対的に信じることができるからでした。
逆を言えばそれ以外は何一つとして自信はないのです。
私が1番落ち着く時間。
それは考え事をしているときです。
特に自分の思考回路について自分自身で分析しているときが1番落ち着くのです。
私という人間を客観的に見つめる時間がとにかく落ち着くので大好きなのです。
一種のナルシズムなのかもしれません。
ですが、私はこのナルシズムのおかげで自分と同じように考えることが大好きな人たちを敏感に感じ取ることができます。
なぜなら常に考え事をしている人たちの発する言葉はとても興味深く面白いからです。
話を合わせようと考えなくてもポンポン話が弾む、下手すると一睡もせず話し込むこともあるくらいに。
私の出会った人の中で初対面なのに一睡もせず話し込んだ人が1人だけいます。
私はその人に何かとても似たものを感じました。
興味を持つ美術だったり、本だったり、これ面白いからオススメですよ、とLINEすると同じものを既に見ていたりする、そんな人でした。
そういう人って魂レベルで繋がっているので「信用」ではなくて、「信頼」できるんですよね。
「信用」と「信頼」の違いってそこに信じるための根拠が必要かどうかなんですよ。
後者は必要ないのです。
皆さんにはいるでしょうか。
信じるためにいちいち根拠の必要ない人が。
私はそんな人の存在にここ1年でたくさん気づくことができました。
私が最も尊敬する人の1人である東大の名誉教授・養老孟司さんは言いました。
世界を変えることは難しいけど、自分が変われば世界は変わって見える
私の身に起きたのはまさにこれです。
私の周りの環境は変わっていません。
それでも素晴らしいものや言葉などを教えてくれる信頼できる人と出会えたのは私が変わったからでした。
私は自分が変わる前、人のことを根拠なく誰彼構わず盲目的に信じようとしていました。
何を信じていいのかが分からなかったからです。
ですが、それって相手からしてみると結構なプレッシャーなんですよね。
今この人はこんなに自分のことを信じてくれているけど、もしもっと距離が近づいてこの人に自分の至らない点を見せたら嫌われてしまうのではないか、という風に。
そして私が少しでもその点に気付いていることを察知すると不安になって傷付く前にサッと逃げていくのです。
1番悲しい人間関係の切れ方ですよね。
だって誰も悪気はないんですもの。
自分の弱さを守るためだけにお互いの心に傷を生む。
1番苦しい終わり方です。
でも私は変わりました。だからもう繰り返さない。
これから私は、自分の周りにいる全ての人において、しっかりと彼らの持つ光と影の両方を見つめ、それら全てを優しく包み込む暖かいホッカイロのような存在になりたいと思います。